高校生の時に英語の教師から「飛騨青年の叫び」と言う歌を習いました。
歌詞は「♪あゝ偉(い)なるかな飛騨の山 あゝ美(び)なるかな飛騨の渓(たに) あゝ清きかな飛騨の水・・・」
と言うものですが、
この歌を作ったのは(大正3年)当時の上宝村に赴任していた教師の篠原無然でした。
篠原無然は兵庫県に生まれた人ですが、縁あって飛騨上宝の地に代用教員として赴き、
教鞭の傍ら地区の青年教育に取り組み、飛騨工女たち待遇改善にも尽力された他、
乗鞍の登山道の整備や姫ヶ原、土俵ヶ原、桔梗ヶ原などの命名など多くの功績を残しておられます。
師は1923年(大正12年)の9月に関東大震災の救援に上京後、大阪へ転職されるも、
翌1924年(大正13年)には再度飛騨へ帰ろうと東京からの帰途の途中に雪の安房峠で遭難死されました。
行年36歳だったとのことです。
その場所は安房峠の西側の中腹の平湯が見える地で、石碑が建てられています。
安房峠も現在は安房トンネルが開通しており夏季にしか通ることはありませんが、
無然はその変遷の様子もこの地で見守っていることでしょう。
前出の「飛騨青年の叫び」を私は今でも全歌詞歌えるほど当時の高校生活と共に鮮明に頭に残っています。
※ 画像の最後に動画もありますのでご覧ください。
この地に尽力された方なのですね。意味深い、
返信削除まさにこの歌のように、素晴らしい地ですね。
36歳の若さで亡くなられたとは、
もっともっとこの美しい自然あふれる地で
ご活躍なされたでしょうと、残念に思います。
rabbitjumpさん、おはようございます。
削除コメント有難うございました。
飛騨は都から遠く離れた地なので秘境感があり島国状態ですが、
篠原無然のような師をもって文化が開けた経緯があります。
全国的には名前が知られていない人物と思いますが、飛騨には無くてはならない人でした。
若過ぎる死が悔やまれますね。
遭難ですか
返信削除やるせないお話ですが
こうして、今の世にも証があるのは
素晴らしいですね
そして、今でも、彼の詩が引き継がれているのですね
zakkkanさん、おはようございます。
削除コメント有難うございました。
遭難の地から平湯は目と鼻の先、そんな距離で力尽き人生が絶たれるなんてむごい話ですよね。
でも奥飛騨の人には何時までも思い語られる人物です。
飛騨青年の叫びが何時までも歌われることを願いたいです。